似たような状況、前にもあった。確か、瑠駆真が生徒会の副会長室を訪ね、廿楽華恩を罵倒し、それによって華恩が自殺未遂なんてものを起こした時だった。
廿楽華恩。
思い出したくもない名前。自分に身勝手な恋心を抱き、理不尽な嫉妬心で美鶴を自宅謹慎という状況に追い込んだ女。
確か、今は自宅療養を続けているはずだ。興味もないな、あんな女。
心内で一蹴し、改めて女子生徒と向かい合う。
「何? 僕に用なんでしょう?」
その言葉に女子生徒は逸らしていた瞳をギュッと閉じ、そうして今度は勢い良く瑠駆真を仰いだ。
「あのっ」
声が上擦る。
「あの、携帯の写真の件、どういう事ですか?」
「携帯の写真?」
ワケがわからず首を捻る。
「何それ?」
黒々とした瞳を艶やかに瞬いて見下ろしてくる相手。少女は頬を紅潮させ、だが右手に握る携帯の存在を思い出すや、その顔は途端に青くなる。自身の感情の揺れに軽い貧血を起こしながら、少女はゆるゆると画面を上にして携帯を差し出した。見るからに震えている。
何?
手に取って画面を見るや、瑠駆真は絶句した。
身体など震えない。むしろ硬直して微動だにできない。マンションの入り口で聡に詰め寄られた美鶴と同じように、瑠駆真もまた、混乱して携帯を取り落としそうになった。
そんな背後に、間の抜けた声音。
「やぁ、おはよう」
振り返る先で、奥二重の瞳が笑う。
「今日は寒いね」
屈託のない笑顔を貼り付け、小童谷陽翔は右手を上げた。
「ん? おばさん、いないじゃん」
押し入るように入ってきた聡は、奥の静けさに目を見開く。母の詩織が居ればテレビの大音量が響いてくるのが常。首を伸ばして覗いて見れば、部屋には人の気配など感じられない。
「誰もいないのか?」
「店の女の子の家で酔いつぶれてるって。昼までは帰ってこないってさ」
言いながら、どうやって聡を追い出そうかと思案しつつ靴を脱ぐ。だがその肩を、大きな掌がガッシリと掴む。
「嘘、ついたのか?」
「え?」
一瞬、ワケがわからない。
本当にわからないといった様子でキョトンと見上げる瞳が、今の聡には恨めしい。
「おばさんが居るって、言っただろう?」
「あ」
そうだ。美鶴はマンションの入り口でそう言った。
「嘘だったのか?」
「いや、それは」
「俺を追い返す為?」
「えっと」
「俺に説明したくなかったから?」
「あのっ」
苛立ちを含ませる聡の態度に、後ずさるように部屋へ入る美鶴。それを追うように手早く靴を脱いで入り込んでくる聡。
冬の陽射しは弱い。晴れていても、夏の時のような力強さはない。日当たりのよい南側でも、人気がなければ寒い。しかも外では初雪が舞っている。そんな部屋で向かい合う。
「あの、だって聡が部屋に入るって言うから」
「俺が部屋に入っちゃ悪いのかよ?」
「悪いって言うか」
「言うか?」
「だって聡」
「何だよ?」
言い訳が見つからず口ごもってしまう。そんな美鶴に一歩寄る。
「俺に説明するのが、そんなに嫌か?」
「そうじゃない」
「じゃあ何だ? え?」
畳み掛ける。
「違わないだろう?」
「違うよ」
「じゃあ、何だ?」
「だって聡」
迫るような相手の存在。恐怖すら感じて思わず両手で己の身を抱いた。その感触に思い出す――― 夏の夜。
じっとりと汗ばむ胸板の広さと、腕の力強さ。そして、息苦しさ。
「聡、変なことするからっ」
羞恥と怒りで、思わず顔を背けてしまう。
思い出したくなかったのに。
そんな焦慮を滲ませる相手の表情に、聡の胸が熱くなる。
俺と、美鶴。二人だけ。
心なしか、掌が震える。
抑えろ。
必死に言い聞かせる。
もうあんな事はしちゃダメだ。わかってる。わかってるんだ。あんな事したら、また美鶴を怒らせる。きっと嫌われる。だから、抑えなくちゃいけないんだ。
だが、ギュッと握り締めた左手の硬質に目を見開く。冷たく光る、携帯電話。
俺は抑えているのに。
「俺は」
無意識に呟く。
「抑えているのに」
そうだ。だって、抑えなければ嫌われてしまうから。サイテーだなどという冷たい言葉を掛けられてしまうから。だから自分は抑えているのに、なのに。
「なのに、瑠駆真ならいいのか?」
「え?」
いつの間にか、もう目の前にいた。
「瑠駆真ならいいのか?」
「え?」
「俺はダメでも、瑠駆真ならいいのか?」
「え? 何?」
「俺は部屋に入れるのもダメで、でも瑠駆真とならこんな事をするのかっ」
携帯を突き出す。
「俺は追い返すのに、瑠駆真なら夜に会って、こんな事するのか?」
「だから、それはこれから説明するって」
その時スカートが小刻みに震えた。携帯の着信だ。
取り出した美鶴は、思わず唇に掌を当てる。
瑠駆真。
メールではなく電話だ。出なければ留守電に切り替わるまで震え続ける。
どうしよう。
出るか無視するか、咄嗟に判断のできない美鶴の掌から、聡が素早く取り上げる。
「あ」
止める間もなく画面を睨む。そうしてボソリと呟いた。
「瑠駆真か」
画面に表示された山脇瑠駆真の五文字。その文字を睨みつけ、次の瞬間には床に投げつけていた。
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